国際協力

私たちは皆、マリーかも知れない。

「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない。」

ご存知の方も多いはず。

 

フランス革命の時代、飢餓に苦しむ民衆達がパンを求めて反乱を起こしたことに対し、マリーが発した(とされる)言葉。

 

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※すごく分かり易くまとめてくれているsiteを見つけたので、勝手にshare!

革命に飲み込まれた王妃「マリー・アントワネット」

http://www.marieantoinettej.com/


マリーの境遇を考える。

民衆にしてみたら、「何言ってんの?この王妃。」ってことになります。

 

「パンでさえ手に入らないのに、お菓子なんて、もっと手に入らないでしょ。そんなことも分からないの?」って。

 

でも、マリーにとってみたら、「そうなの?」って感じです。

 

理由はただひとつ。民衆の生活を知らないから。

 

革命の時代。民衆は飢餓で苦しみ、その日のパンを得るために反乱を起こす。その一方で、マリーのいる王家一族は、豪華絢爛な王宮で暮らし、相変わらず豪華な食事をしている訳です。

 

民衆が普段どんな生活をしているか、どんなものを食べているかなんて、知らないんです。

 

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(↑有名な、「ベルサイユ宮殿」)

 

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(↑これもまた有名な、宮殿内の「鏡の間」)

 

革命が起きているということは、情報としては知っていたかも知れない。けど、革命のさなかで民衆が実際にどんな生活をしていたかなんて、マリーにとっては全く未知。知る由もないです。

 

そんなマリーにとって、あの有名な発言は、ある意味、然るべきなのかも知れません。

 

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(↑こちらも有名な、ドラクロワ作「民衆を導く自由の女神」)


相手の立場に立って考える、ということ。

マリーのように、生まれてからずっと豪華絢爛な生活をしてきた人にとって、民衆の生活は、もちろん経験したことなんてないし、想像することだって出来ない。「全くもって分からない世界」です。

 

では、「全くもって分からない世界」で暮らしている人達に対して、マリーのように自分の考え方や行動を提示するのは、果たして良いことでしょうか。

 

答えは「否」ですね。

 

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(↑映画「マリー・アントワネット」の一幕)

 

生活環境や境遇によって、その人の立場によって、考え方や行動は変わります。

 

たとえ自分自身が「良かれ」と思って行動や発言をしていても、相手にとって良いことかなんて、分からないんです。


フランス革命の時代から、時を超えて、現代。

フランス革命の頃の王妃だって、現代の私たちだって、同じです。

 

どういうことかというと、「いま私たちが良かれと思って相手に提示しようとしていることは、本当に良いかなんて分からない」、ということ。

 

いまアナタが彼氏/彼女にしようとしていること、本当に相手が望んでる?相手の気持ち、ちゃんと考えられてる?

 

(という恋愛バナシに始まり、)

 

いまアナタが募金しようとしたNGO、本当に現地のためになる活動してる?支援者の価値観を押し付けてるだけじゃない?

 

(という分野に話題は発展し、)

 

私自身の場合。「いま私がカンボジアでやろうとしていることって、本当にこの国のためになる?先進国で得た知識から勝手に判断しただけで、相手の立場に立って考えられてないんじゃない?」そうね、うん。かなり考えさせられる。

 

どうしたって、私は日本という先進国で生まれ育った。その事実は変わらない。そして、日本という先進国の中に存在する物事が、私にとって「良いこと」であり、「こうあって然るべきだ」と思っていること。

 

カンボジア在住3年目を迎えるという事実。その一方で、デフォルトとして、私は日本という先進国で生まれ育った、という事実(というか、前提条件)。

 

在住歴がいくら増えても、自分の中の「良かれ」や「然るべき」は、どうしても日本基準になってしまうわけ。

 

じゃあ果たして、自分と相手、二者が分かり合うことって、出来るのかなあ。

 

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ここで大切なのは、「じゃーもー分からないから、やーめた!」となるのではなく、「私はこう考えるんだけど、どうかな?」と、寄り添うこと。

 

そう。寄り添う。寄り添おうとする。そのプロセスが一番大切。

 

フランス革命の時代。もしマリーと民衆が寄り添おうとしたなら。

マ:「パンがなければ、お菓子を食べれば良いじゃない。」

 

民:「いやいやマリーさん。パンも買えないのに、お菓子なんて無理っす。」

 

マ:「どうして?」

 

民:「それはですね、云々云々、これこれという理由があるからです。」

 

マ:「そうだったの!?ごめんなさい、知らなかった。それだったら、こういう解決方法があるわね!云々云々。」

 

民:「マリーさん、ありがとうございます!そうします!」

と。

 

歴史にたらればはないけど、もしマリーと民衆が寄り添っていれば、もしかしたら歴史が大きく変わっていたかも知れない。

 

寄り添う、ということ。

 

自分と相手。二者が完全に理解し合うのは難しい。にしても、寄り添おうとすることはできる。そのプロセスを、大切にせねば。


私たちは皆、マリーかも知れない。

相手の立場に立って考える、ということ。

 

自分が「良かれ」とか、「然るべき」と思っていること。果たして相手にとって同じかなんて、分からない。

 

そして、「分からない」から「やーめた!」となるのではなく、寄り添うということ。

 

自分の価値観を押し付けるのは、良くない。

 

私たちは皆、マリーかも知れない。

 

私たちは皆、マリーになる可能性がある。寄り添うということをしなければ、マリーになってしまう。

 

 

※同じようなお話を、桃太郎バージョンでも書いております。

もしよろしければこちらもご一読ください。

「桃太郎は、ヒーローか。」

https://harukacambodia.com/2018/04/01/momotaro/

 

“私たちは皆、マリーかも知れない。” への 1 件のフィードバック

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